1945年、戦時中に京都に爆弾が投下された話 その2

こんにちは、Candyです。

先日、京都新聞に載った記事に、戦時中の空襲のことが出ていました。京都市の西陣空襲が一番酷く、この付近に7発も落とされた、、

他にも京都市内に爆撃されてます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2

第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名(京都府警の資料では死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとされる)。

報道管制が敷かれたため、被害の詳細は判明していない。

以降の爆撃禁止
第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。停止理由は、歴代米政府中枢にいたバーナード・バルークも主導していたように、原爆投下目標だったからとされている。何故京都に原爆が投下されなかったのかは、京都には世界的にも価値の高い文化遺産が多数存在したからと言われていたが、近年になってその説は有力ではないとも言われてきている。


京都は御所もあり、神社も多いから爆撃されなかったという認識が一般的なようで、私も祖母から聞くまで知らなかったのですが、思いっきり落とされてますねん。しかも原爆の標的だった!

最近、フランス在住の元2chひろゆき氏も”今後戦争(第三次大戦)が起こったら僕は京都に逃げる。京都は先の戦争でも爆弾が落ちなかった安全”と言ってましたが、落ちてるのよ~と言いたかったが、見てた動画がアーカイブだったのでまぁいいかと。。

勿論京都だけじゃなく、他の地でも落ちてるわけですが、京都は安全って、全然安全じゃないと思います。

石碑がある辰巳公園

知らなかったので、行ってみました。

普通の小さめの公園。
そこにひっそりと石碑が。

空爆被災を記録する碑

この西陣地区に、7か所落ちたとされる地点の地図もあります。

空襲当時の上京区出水付近

見づらいですが、、

石碑の周りで子供たちが遊んでいるので、少しは癒されますね。
とても悲しいことでしたが、、

マウンテン滑り台が目印!と思いきや、この辺の公園、似たような滑り台があちこちに。

このあとまた祖母の家に様子見に行ってきました。なんだか元気一杯でしたよ。戦時中の話も少しまた聞いてきました。

祖母はその頃女学生で、戦時中に祖母の父母と3人で京都府丹波の田舎へ疎開。男兄弟は皆戦争へ。

丹波で農地を買って小作人に作ってもらおうとしていたのに、突然法律?が変わって、自分で農作業しないなら農地を買えない、とされてしまい、仕方なく祖母達が農作業をすることになった。農作業などしたことがなかったので本当に大変で、また、家から畑まで山を越えないといけなく(えっ、どんなとこやのん(・_・;))しかもバスは薪を燃やして走っていた・・・

薪バス・・

石炭でもなく、薪で~?!

これがまた、走行中に急に動かなくなることが多々あり、そのたびに降ろされて歩いていかねばならず。バスの運転手が電話をかけて救援を呼ぶのだけど、なかなか来てくれない。

その電話が、黒電話ですらなく、ハンドルをぐるぐる回してかける電話だった(よくわからん)かけたらまず交換手さんが出る電話。


(ネットから拝借)

↑恐らくこんな感じ?
結構レトロでお洒落かも。。

当時は闇市もあり、みんな田舎へ手ぶらで来て、帰りは山のように食べ物を持ち帰る。その時も皆の足はこの薪バス。途中で動かなくなった時は大きな荷物を持ったまま悲惨・・

農家をやっても国に多くを取られてしまう。(年貢かな?)生きるのが精いっぱいで大変な時代だった。

戦争前は食べ物が沢山あってそんなに不自由してなかった。戦争が始まってからだんだん食べ物がなくなっていった。

当時は「戦争に負ける、戦争反対、アメリカのような大国に勝てるわけがない」と言ってた人も実はそこそこ居たが、そんな事を大きな声で言う人は非国民とされ酷い目に遭う。(同調圧力)

あの頃、軍に行くのが嫌で逃げてしまった男性が居たとしても不思議ではなかったなぁとのこと。ただ多くの人は戦争マインドに洗脳されていて、戦地へ行くことが良いことだと考えていた。

そして終戦後、京都市内の自宅に戻ったら、そこは西陣地区で爆弾が落ちていて家がまるごと無くなってた。自分達も市内に戻るまで知らなかった。(情報統制)

その後、負傷して帰国した祖母の兄たち。京都駅では続々と帰国する日本軍をお迎えするのに多くの民衆が殺到し、将棋倒しになる事故が起こった。

したじきになり亡くなったであろう沢山の人たちをその辺に寝かせて並べ、寒い冬のさなかバケツの水を身体にぶちまけ生存者を探した。ここで動かない人は皆死んだと思われたのだが、祖母の兄はちょっと動いたため、生存者として発見されそのまま病院へ。でも一緒に出掛けた一番上の兄は動かなかったので、死んだということになった。

以後、京都駅で大勢で出迎えるのが禁止になった。


京都の爆弾投下話は、京都の人でさえ知らない事も多く、このようなことは子供たちにも言い伝えなくてはいけないなぁと思います。今現在も形を変え、似たようなことが起こってますしね。

歴史を学ぶと、人間って戦争ばっかしてますよ。

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