クリシュナムルティの言う「洞察」とは何か?

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クリシュナムルティは英語の「洞察(insight)」と 「気づき(awareness)」の違いを大切にしていました。

結論から言うと、「洞察」とは私たち日本人が日常会話でいうところの「気づき(ハッとするような発見、一瞬で起こる内的理解)」のことです。

日本語では、日常会話で「今、洞察が起こったわ」なんておそらく・・言わないですよね。「今ハッとわかった」とか「気づきが起こった」って感じでしょうか。

「洞察」という言葉に馴染みが薄く、日常会話では使わないので、クリシュナムルティの言う洞察の意味がはっきりわからず彼の本が難解に感じてしまうこともあると思います。(しかし正しく翻訳するとやはり「洞察」になります)

でも「(点と点が一瞬で繋がるような)気づき」なら「なぁんだ、そのことか」と思われる方は多いと思います。

  • 洞察は子供でも、誰でもできるし皆自然にやっている
  • しかし、大人になって出来なくなってしまう人がいる

後者が恐ろしいですね。

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クリシュナムルティの「気づき(awareness)」とは?

「評価しない」「選ばない」「逃げない」「ただ観る」という純粋な観察の状態。

たとえば、怒りが起きたときに「怒ってはいけない」「相手が悪い」などの判断を入れず、ただ怒りの動きを静かに見つめること。

これはまだ「洞察」ではなく、洞察のための土台です。

もっと簡単に書くと

  • あ、雨が降ってきた
  • あ、私いま緊張してる
  • あ、ここに段差がある
  • あ、この人は怒っている

などです。そう、見たまんまのこと。ただし、いろんな思考を絡めないこと。

  • 「あ、雨が降ってきた」←気づき(awareness)
  • 「あ、雨が降ってきた(わぁ嫌だなぁ、わぁ嬉しいなぁ)」←思考絡んでる。
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では洞察とは何か?

洞察は、一瞬で理解することです。
今までバラバラだった点と点が一気に繋がって理解した、となること。

「考えていないのに突然わかる」というのが洞察の典型的な特徴。考えた末の答えではなく、考えてないのに一瞬で理解する、「ああ、そうだったのか!」と深く気づきが起こること。

これを経験したことない人は居ないと思います。

思考が働いていないときに起きる、突然の全体理解。
これがまさに洞察の特徴。

普段自動思考三昧の方でも、思考と思考の隙間という、一瞬思考が止まる瞬間というのはあるはずです(気づいてないだけで)。その瞬間に、瞬時に「あぁ、そうだったのか」という洞察なる気づきが起こることがあります。しかしすぐに自動思考が始まると、スルーしてしまったり、しっかり気づけなかったり、自動思考で「そんなことはない」とあろうことか否定してしまったり・・とかあるかも?

関連するものを見聞きした瞬間に答えが出現する

これも非常に重要なポイント。

例えば本や映画など観ているとき、突然全く関係ない心の中の問題が、映画の内容とリンクして一気に解決した、分かった、など。

洞察は外からの刺激によって引き金が引かれるだけで、理解そのものは内側で一瞬にして起きる

「ある言葉、ある光景、ある音、ある比喩、ある出来事・・・」それらが、自分の中に眠っていた「全体像」を一気に照らし出す。

これは「考えた結果」ではなく、考えが止まっているからこそ起きる理解。

洞察という言葉が難しい

クリシュナムルティの本を読んでいて、「洞察って何だろう?きっと凄い事で、選ばれた人しかできないことなんだろう」なんて思っていたのですが、なんてことない、みんな普通にやってる「一瞬の理解、気づき」のことでした。

洞察は特別な能力ではなく、誰もが子どもの頃から持っているものです。

クリシュナムルティは様々な人との対話で、洞察を重要視していました。洞察なき会話は残念なのです。会話をしているときに相手がふと「あ、わかった!」という閃きのような一瞬の理解が起こった時、彼は嬉しく思っていたことでしょう。

では洞察が働かなくなっている人とは?

  • 知識に依存しすぎる
  • 権威に従う癖がある
  • 自分の内側を観察しない
  • 思考が常に動いている
  • 自分の意見を持つことに恐れがある
  • 正解を外側に求める

こういう状態のとき、洞察は起きにくくなります。

書籍:ブッダとクリシュナムルティ

権威ある仏教学者ラーフラ博士との討論が載っている本ですが、この中で、仏教学者は洞察を1度も語れませんでした。その理由として、

  • 仏教学者「経典・知識・引用・歴史」の話しかしない
  • クリシュナムルティ「生きた観察・直接の理解・洞察」を語っている

仏教学者は「仏陀はこう言った」「経典にはこうある」と繰り返し、これは知識の領域

クリシュナムルティは「あなた自身はどう見ているのですか?」と問う、これは洞察の領域

仏教学者が答えられなかったのは、彼が“知識の世界”に生きていて、「自分の心を直接観る」という習慣がなかったから。これは批判ではなく、専門家ほど知識の枠に閉じ込められやすいという構造的な問題と言えるかもしれません。

洞察は「知識の外側」で起きるものです。

書籍:片隅からの自由

この本には上記の仏教学者と討論したときのお話が出てきます。クリシュナムルティの本音であり、重要なヒントを感じますし、私たちの参考にもなりますのでその部分を引用いたします。eBookjapan電子書籍で購入したので、ページ数はわかりません。

第三部 1978年6月ブロックウッドパーク より引用

6/22と23には、クリシュナムルティ、ボーム、ナラヤン、そしてスリランカから来た仏学者ラーフラ博士との討論をフィルムに撮るため、三台のカメラが設置された。

翌日の昼食の時、私は仏教の専門家のついてどう思うか訪ねた。

クリシュナムルティは言った。
「ご存じのように、読んだことを反唱することしかできない物知り(いろんな本を読みかじってその内容を訳知り顔で話す人)がたくさんいます。彼らは、読んだことを生きることができないのです。討論の間中、洞察はただの一瞬もありませんでした

彼は(クリシュナムルティがいう)新しいものと、古いもの(仏教)を比較する以外に何もしなかったのです。彼はあらゆるものを仏陀に引き比べているだけで、仏陀になろうとは思わないのです。

ラーフラ博士の本は日本では岩波から以下の文庫が出ています。私も持っていますが、仏陀の知識を得るにはとても良い本です。

クリシュナムルティは仏陀がどういってたかという他人の話ではなく、ラーフラ博士自身の実体験からくる洞察を聞きたかったのでしょう。話をしている領域が違ってました。

そういえばラーフラは、仏陀(釈迦)の子供の名前と同じですね。釈迦がわが子に名付けたラーフラは「障害、束縛」という意味で、出家の妨げになる子という意味・・これは有名なお話です。

最後に

長くなりましたが、クリシュナムルティが重要視していた「洞察」。私たちも日常から洞察なる気づきを得ながら、楽しく生きたいですね。

洞察を頻繁に起こすためには、何度もしつこいですが、脳内のお喋りをやめ静かでいながらも、周辺で起こっている全てにしっかり気づいていること。脳内がわしゃわしゃしていると、そもそも周辺にあるものに気づくことすらできないのです。

美しい虫の音が聞こえているのに、全然聞こえてない人っているでしょう?言われてみて初めて「あぁ、そういえば聞こえるね」。しかし虫の音なんてどうでもいいのです。頭の中は明日のことや悩みやらでいっぱいで、音色をじっくり聞きたいという心の余裕もありません。忙しすぎると思考に振り回されているだけの人生になってしまいます。しかしそれでもいいのです。その方は今はその状態なだけで、やりたい人だけが脳内お喋りを静かにしていく。

洞察が起こると生きるのが楽しくなります。あれもこれも繋がってわかっていく。しかしそれは、うぉーめっちゃタノシイワー♪ではなく、静かな小さな幸せが幾つも起こる、です。

派手さはなく、地味。けれど膨大な至福感があり、たとえ外側(社会)で何が起こっても消えることがない、外側で起こることに影響されないんです。無敵と言えます。

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