2021年のお花見は、近くの平野神社にしました。
満開です。
※戦争話は後半にて
京都 平野神社
この神社には、昔、お公家さんから贈られた桜の木が沢山あるのです。(贈られたという言い方はおかしいような気がしますが、ちょっと言い方がわかりません)
品種もいろいろありました。
立て看板と桜を別々に撮影したら、どれがどれかわからなくなってしまい・・品種を載せるのはやめておきます。
ピンクが濃いものや白に近いもの、花の形も様々で
拡大したら、こんななってるのか~↑
この日は黄砂が酷い日で、天気予報は晴れなのに空は雲だらけ(雲ではなく一面黄砂なのですが)
人が少ないところを載せていますが、ほんとはめっちゃ人が居ました(^^)
紅白幕のあちら側は有料コーナーになってました。最近なにか有料ってのが増えたような・・
すぐ近くの北野天満宮の桜も、一部有料コーナーが。。
2018年の台風21号で平野神社が倒壊
2018年はわたしバリ島に住んでいたので、関西での台風が凄かったのは知ってますが神社倒壊は知らなかったです。
バリ島に住んでいるのにずっとヤフー災害警報が私のスマホに入ってきてたんですね。バリに居るのに日本の地震情報で真夜中でも関係なく警報なりまくりってことは、GPS関係ないんだなとも思いましたねぇ。
屋根が落ちてしまってます。
なかなかショッキングです。
只今建て替え中につき、どこでお賽銭するのかわからなかったです。
こうしてみると、桜の木だらけですね。
第二次、戦争時代のはなし
この日、祖母から直接聞いた話。
実は今まで「戦時中、京都は御所があるから空襲はなかった」というのをあちこちで聞いていてそれを信じていたのですが、なんと祖母は「京都市内に空襲あった」と言うではありませんか。びっくり!
祖母は今90代前半で、戦時中は女学生でした。
男性には赤紙がきて、街中は女・子供ばかりになっていた。食べ物もどんどんなくなってみんな辛い時代だった。田舎への集団疎開もあったし、武器の材料不足でフライパンなどの金物系まで国に取られたと。(戦後は住居以外の「農地」を全部没収され、小作人に渡すよう言われれた、預金封鎖もあった、闇市もあった)←凄い話になってくる。
1945年の上半期の間、アメリカ軍による空襲が5回もあった。夜、灯りが漏れるとダメ、電球を黒く塗ったり、電球に黒い布などをかけて灯りが窓から絶対漏れないようにしていた。もう、暗くて暗くてほんと陰気くさい雰囲気で嫌だった、とのこと。
近所では、千本出水のあたりに爆弾が落ちて、もう死ぬかもしれないと恐怖の日々だったという。。。あとは観光名所の東山や、なんと!御所にも落ちたと(◎_◎;)。。。もうアメリカ、めっちゃやる気満々やないですか。
■第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。
■第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
■第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。
■第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
■第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名(京都府警の資料では死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとされる)。
報道管制が敷かれたため、被害の詳細は判明していない。
以降の爆撃禁止
第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。停止理由は、歴代米政府中枢にいたバーナード・バルークも主導していたように、原爆投下目標だったからとされている。何故京都に原爆が投下されなかったのかは、京都には世界的にも価値の高い文化遺産が多数存在したからと言われていたが、近年になってその説は有力ではないとも言われてきている。
とのことです。
原爆投下先の変更に関しては、モルガンお雪さんの話もネットで見聞きしたことがありますがどうなんでしょうかね。ちなみに叔母が、お雪さんの話は知ってると言ってました。
以下のニュース記事も残ってました。
京都にも空襲があった 上京区の住宅密集地に爆弾7発、109人が死傷 初の献花式
2015.6.26 13:08
https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260047-n1.html京都市の住宅密集地が空襲に見舞われた「西陣空襲」から26日で70年になった。40人以上が犠牲になるなど大きな被害をもたらしたこの空襲を語り継ごうと、周辺の住民らが26日、現場近くの公園で初めて献花式を開き、花をささげて冥福を祈った。
昭和20(1945)年6月26日午前、京都市上京区の住宅密集地を米軍機が襲い、7発の爆弾が落とされた。京都府警の資料には死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとある。
京都は大きな空襲は少なかったともいわれるが、それでも少なくとも5回、大規模な空襲があり、計300人以上が犠牲になったという記録も残る。西陣空襲はその中でも最大規模だったとされる。
当時、国民学校6年生だった西川義明さん(81)は、母親と一緒に防空壕(ごう)に身を隠し、難を逃れたがシューっと爆弾が風を切る音と、爆撃後に周囲に遺体が散らばっている風景が忘れられないという。西川さんは「若い世代にはこんな体験はしてほしくはない」と話した。
追記
上記の産経記事の話を母にしたところ、祖母から聞いた話と違う話が登場しました。祖母は軽度の痴呆があるので他の人にも話を聞かないといけないと思った・・・
上京区出水(千本出水)に爆弾が落ちた話ですが、実は攻撃がある前に情報が入っており、祖母達一家は即、京都府丹波の田舎に土地を買って引っ越したという。(戦後、住宅地以外の農地は全部ではないが多くが没収された)
情報を仕入れ、即行動に移したのは私が小学生のときに亡くなったひいばあちゃん。(祖母の母であります。)どのように爆撃投下が起こる話を聞きつけたのかはわかりませんが。一家の男たちは皆、満州の戦地へ行ってましたし。
というわけで祖母は京都府下の田舎に疎開していたわけです。引っ越す直前までは市内で防空壕に入ったりして怖い思いをしていたのでしょう。
そして、戦争が終わって市内に戻ってみたら、家が影も形も無かったとのことです(母談)。母は戦後生まれなのですが。
産経記事にあるような、「遺体が散らばってる風景」などは祖母は見てなく、情報規制もあったのでその場に居て無事だった人しかわからない現状ですね。
しかし、当時は新聞とラジオくらいしかなかったのに、ひいばあちゃんはどうやって爆弾が落ちる話を聞きつけたのでしょうか。そこが知りたい。口コミで噂になっていたのか?
私がいろいろ調べる癖があるのは、ひいばあちゃんからの遺伝と言えそう。