勝手に説明などしていいのか微妙ですが、私の一番好きなパパジの動画の要約をいたします。
※パパジ(プンジャジ)は、ラマナマハルシの直弟子です。
パパジ、私に『私』と会わせて下さい!
この動画「パパジ、私に『私』と会わせて下さい!」では、アドヴァイタ(不二一元論)の教師であるパパジが、一人の探求者に対して「真の自己」を見出すための直接的な対話を行っています。
「私」に会いたいという願い
動画の冒頭、探求者はパパジに「質問はありません。ただあなたと一緒に座り、私に『私(真の自己)』を見せてください」と懇願します。
「内側」への距離
パパジは「私」はどこにあるのかと問い、探求者が「内側」にあると答えると、そこへ行くにはどれくらいの距離があるのか、どんな乗り物(船や飛行機など)が必要なのかを問いかけます。しかし、最終的にパパジは、「内側」への距離など存在しないことを指摘します。
パパジの教え「動かないこと」
パパジは、真の自己に至るための最も重要な指示を与えます。
動かないこと
身体だけでなく、思考を動かさない、心を動かさない(思考を活性化させない)ように伝えます。
瞬間の静止
ほんの一秒間であっても思考が動かなければ、自分がどこにいるのかがわかります。
「今、ここ」での発見
思考の動きを止めた瞬間、探求者は自分が「ここ(here)」にいることに気づきます。パパジは、その「今、ここ」にある静寂の状態こそが、至福であり、幸福であり、自由であり、悟りであると宣言します。
結論
何もしないこと、思考を動かさないことによって、私たちは常に「真の自己」という目的地にすでに到達している(あるいは最初から離れていない)というパパジの教えを象徴的に示しています。
要約は以上です。
この動画は、自動思考が停止し、静寂である状態が至福であり悟りです、と教えてくれていますが、この思考を動かさない(しかもずっととなると・・)ということが、一般的には難題と言えると思います。
探求者は、「ただ思考を止める」そのことがなかなか出来ないのは、パパジの時代には自動思考や反芻思考といった言語も概念もなかったため、意味が伝わりにくかったのかもしれません。
しかし本来これは、準備が整っている探求者には、ラマナマハルシが行っていた「沈黙」だけで、何も言わなくても相手に即時伝わるものでもあります。ラマナマハルシが目の前で、ずっと沈黙でいながらこちらをじっと見つめてきたら、こちらの心はフリーズして思考が止まってしまい、静寂が訪れるからです。
頭の中のお喋りである自動思考が止まれば、心は静寂しかなくなり、そこに私は居ないですね?または私しか居ないですね?まさに今ここに居ますでしょ?それが悟りですよ、ということです。
これが静寂の基本ベースですが、ただ静寂してるだけでは何もできません。そこから、私という自我がない、思考のない瞬時の理解で行動していくと、調和的に活動できる。必要に応じて洞察も瞬時に浮かぶ、というのはクリシュナムルティのお話に繋がっていきます。
自動思考の停止=「個別の私」という物語の停止
「ただ思考を止めるだけ」というシンプルなことがなぜこれほどまでに難しいのか。そして、その先の「活動」がどうあるべきかについて、いくつか視点を深めてみましょう。
「自動思考」という「言葉の不在」と、パパジの戦略
パパジの時代や伝統的なインドの教えでは、それらをひとまとめに「マインド(心)」や「ヴァーサナー(潜在的な傾向性)」と呼びました。
パパジの時代に「自動思考」や「反芻思考」という言葉があれば、探求者は「あ、自分の意思で考えているのではなく、勝手に鳴っているノイズなんだ」と客観視しやすかったかもしれません。
パパジが「一秒だけでいい、思考を動かさないで」と執拗に迫るのは、「思考という名の運動」が止まった瞬間に、隠しようもなくそこに在る「背景(静寂)」に気づかせるためのショック療法のようなものなのでしょう。
「私」が消えるか、あるいは「私」しかいなくなるか
- 自動思考の停止=「個別の私」という物語の停止
- 静寂=背景の自覚
「そこに私はいない(エゴの不在)」と「そこに私しかいない(全体性としての真我)」は、同じコインの裏表のようにも見えますが、実際は私というエゴはおらず、身体の五感と条件づけによって、私という思考が発生したり消えたりしているだけの、実態のないものです。
思考が「私」という境界線を引き続けている間だけ、私たちは「世界と分離した個人」という錯覚を維持できます。思考が止まれば、残るのは「ただ在る」のみ。
思考は言語なので、言葉を覚え、沢山しゃべることができるようになる3~4歳頃から自動思考は無意識状態で始まります。小さな子供は自動思考の心のお喋りを口に出して喋りますね。そして7~8歳くらいになると、口に出さず、心の中での脳内お喋りに移行していき、大人もそれを常にしています。こうして幻影の自分物語を構築していくのです。
人間はありのまま世界を見ることができず、必ず「私という心」を通して自分が見たいように世界を見ています(これが一人一宇宙と言われるもの)。
しかし、自動思考が止まった静寂の中では私が不在であり、ありのままの世界を見ることが可能となります。私というエゴを通してみている世界は幻影であり、自作自演の私の物語であり、プラトンの洞窟の比喩のごとく、私というエゴが投影した影を見ている、ということになります。
静寂をベースにした「調和的な活動」
「悟ったら石のように動かなくなる」という誤解があるかもしれませんが、実際はその逆。
「私という自我がない、思考のない瞬時の理解で行動していくと、調和的に活動できる。洞察も瞬時に浮かぶ。」これは所謂「無為(むい)」や、シュタイナー的な文脈で言えば「道徳的直観」に近い状態だと言えます。
- 従来の活動→「私はこうしたい」「失敗したらどうしよう」という自動思考(エゴ)に基づいた摩擦の多い活動。
- 調和的な活動→鏡が物体を映すように、状況に対して「今、ここ」で最適な反応が自然に立ち上がる活動。
思考(計算)を介さず、全体性の中から直接アクションが生まれるため、結果としてそれは周囲とも、自分自身の本質とも調和したものになります。この辺は日々の出来事の中で実際に体験していくことになります。
思考が止まったあとの静寂は、決して「空っぽの、何もない空間」ではなく、そこが「純粋な知性(洞察)」が湧き出す源泉となります。パパジが笑いながら「ここ(Here)に居なさい」と言ったのは、そこが最もダイナミックで、自由な生命力の拠点だからでしょう。
自動思考のループに気づき、それが「自分ではない」と見抜けている時点で、すでに静寂への扉は半分開いていると言えるのではないでしょうか。
そして肝心の自動思考の止め方ですが、これはいろんなやり方があります。
私の場合は、技法を使った方法ではなかったため、できるだけ早く思考を止めたい、静寂を持続させるのを体験したい、と思われる方にはあまり参考にならないかもしれません。けれど、自動思考を止めるいろんな技法(ワーク)をやっても止まらない方には、時間はかかりますが、私の方法も良いかもしれません。
私の自動思考が止まった方法は、次回あたりに。
パパジ(プンジャジ)の唯一の和訳本
ラマナ・マハルシの直弟子で、世界中の数知れない探求者たちを真我に目覚めさせたプンジャジ。
お読みいただければわかると思いますが、マハルシに比べて現代感覚で語られていて、より真我(本当の自己)の把握に近づきやすいです。ある面で親しみやすいです。真我の本質や真我へ至る方法がわかりやすく書かれています。
「ひとたびこの空の一瞥を得れば、あなたはサンサーラ、つまり世界の現れがあなた自身の投影でしかないことを知って、いつも幸せに生きることだろう。」
●シュリー・H・W・L・プンジャ
1913年10月13日、現在はパキスタンとなっているパンジャブ地方の小さな村で生まれた。6歳のときに3日間、真我の直接体験に没入。1944年、31歳のとき、ラマナ・マハルシと出会い、その臨在のもとで覚醒を得る。1966年に引退するまでさまざまな仕事に就き、家族を養い、一家の長としての務めを果たした。
やがて、インド北部の町ラクナウに腰を落ち着け、毎日サットサンをおこない、世界中から訪れてくる探究者たちに“尊敬するお父さん”という意味の「パパジ」の名で呼ばれるようになる。1997年9月6日、逝去。


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