ラマナマハルシの教え|瞑想中に光り輝くものを見たり、常ならぬ物音を聞いたり

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ラマナ師の本をパッと開いたら、気になる部分があったので抜粋します。瞑想中に見える光や聴こえる声や。。w何が起こってるのか。

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「ラマナ・マハルシの教え」より

ラマナ・マハルシ (著), 山尾 三省 (翻訳)

14 ディヤーナ(瞑想)とは何でしょうか?

瞑想とは、自分の本性から決して反れず、自分が瞑想しているという感覚もなく自己として在ることである。この状態にあっては、人は(眼が覚めているのか眠っているのかという)意識区別を全くなくしているので、眠っていてもディヤーナにあると見なされる。

15 ディヤーナ(瞑想)とサマーディの違いは何でしょうか?

ディヤーナ(瞑想)は、慎重な精神的な努力を通して得られるが、サマーディにおいてはそのような努力は必要ない。

16 ディヤーナ(瞑想)において心せねばならぬことは何でしょか?

自己(アートマ・ニシュタ)の内に確立された人にとって大切なことは、その没我状態からけっして動いてはならないということである。その真実の状態から反れると、彼は目の前に光り輝くものを見たり、常ならぬ物音を聞いたり、彼の内部に現れる神々のヴィジョンを事実と見なしたりするようになる。彼はそのようなものに欺かれてはならず、彼自身を忘れてはならない。

光り輝くものを見たり、、というのは瞑想中毎回起こります。赤紫っぽい光が回転したり、オーロラのような光のカーテンがヒラヒラ風になびいているものが現れる事が多いです。光の色は変わることがあり、グリーンがかったものになることも。

又、1か月ほど前、一人で、無音状態で瞑想してた時、脳内にはっきりクリアーな声が聞こえて心の底から驚き。日本語だったのにはかなり笑えました。しかし、それ以降はありません。

特に意味のない「こんにちはー」という声だったと記憶しています。はっきりした口調でクリアーに脳内に響いて、外から聴こえた声ではないのは確実。耳を通して聴いてない。

今まで聞いたことのない声色で、全く知らない存在からの声。男女の区別ができない中性的な声色。また聞いたらすぐわかると思いますが、チャネリングが始まったらこんな感じで聴こえるのか?と思ったりします。でも悪霊かもしれない(その可能性の方が高い)ので、気をつけたい。

今日は瞑想中に新聞の映像が見え、日本語だったので何が書いてあるか読もうとしたのですが、読もうとすると字がぼやけたり新聞が動いたりして焦点が合わず、結局何が書いてあるのかさっぱりわかりませんでした。一体何なんだ。私はこんなのばかりです。

あっ、そうそう、ラマナマハルシが「そうゆうのに欺かれてはならない」と仰ってるのでした。字が読めた方がヤバかったのかもしれません。

20 智慧(ヴィヴェーカ)のしるしは何でしょか?

ひとたび真理を悟れば、そのあとには戸惑いのない美しさが残される。至福のブラフマンに僅かでも違和感のある人には、恐怖がある。身体が自己であるという考えがあるかぎりは、彼が誰であろうと真理の現実者ではありえない。

一瞬でも真理を悟ればそれはもう無かったことにできないのです。普段は普通に過ごしていても、その一瞬垣間見た真我へは、すぐ戻れます。(睡眠中は誰もが戻ってます)

23 「私―が―行為者―である」という考えが少しでもある限り、自己知識を得ることはできない、という定言があります。家住期にありながら自己に至りたいと願う者にとって、日々の勤めをこの考えなしに遂行することができるものでしょうか?

行為は、行為者であるという想いに依存せねばならぬという規則はない。ある行為が、行為者という想いや、為すという想いなしに行われたとしても、そこには何の問題もない。
例えば財務省の事務次官は、他者の眼には一日中注意深く責任感に満ちて仕事をしているように見えるが、彼は「このお金のすべては自分とは実は何の関係もない」と考えつつ、何の執着も熱狂もなしに、自分の勤めを果たしているだけであろう。

それと同じように懸命な家住者は、過去の自らのカルマによって引き当てた運命であるさまざまな在家の義務を、もう一方の手の内にある道具のように執着なしに果たしてゆけばよい。行為と自己知識とは、お互いに障害になり合うものではない。

この家系に生まれた、という体のカルマは誰にでもあり、真理を悟ったあとも体のカルマは生きてる限り残っています。

自分は行為者ではない(私は居ない)という認識になったあとも、日常では私が居るかのように体に残ったカルマを消化すべく生きていくわけですネ。

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至福とは

至福とは幸せな気持ちがずーっと続くことだ、と思ってましたが、真理を悟った以降、そうではないと実感してます。確かにハッピーではありますが、超幸せ、わ~い!嬉しい、嬉しい、というものではないのです。

「至福とは、不幸がない状態である」と、釈迦の本に書いてありました。

確かに不幸はない。少し嫌だなと思う事が起こっても、すぐにその気持ちを消化してしまい、消えていってしまいます。嫌なことが去ったわけでもないのにネ。

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