クリシュナムルティ|人間は全ての条件付けから解放され自由になって初めて、真理に到達できる

精神世界
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クリシュナムルティ(1895年5月12日 – 1986年2月17日)の本を今年に入ってからいろいろ読んでみた。本当に素敵な方。。

クリシュナムルティの何が一番好きかというと、神智学協会で新時代の救世主として見出され教育されてきた彼が、「東方の星教団」という宗教団体を持たされ、しかしそれを自ら解散させたことである。

信者はいらない。人を余計縛り依存させるだけ。お金も名誉もいらない。みんな手放した。とにかく人を縛ってはいけない。依存から抜け出し自ら真理に到達してほしいと切に願う若き時代の彼。。

これは本物だ!

クリシュナムルティ Wikiより

すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと考え、人は組織、信条、教義、聖職者、儀式等によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた。

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ここからは私の話になる

私は真理というものは思考で「こんな感じか?」と思っているだけで直接体験してないし、直接体験してないということは「知らない」ということと同じである。悟ってない人、又は一時的に体験しただけで持続してない人の話など聞いても、人によっては意味がないとも思える。しかし、悟りを目指してこんなことやってるのか~という観察の対象くらいにはなるかも?!

できれば今回の人生で「真理、真我、神秘体験、覚醒、悟り・・」(言い方はいろいろあるけど意味は同じ)を直接体験したいし、必ずできると思っている。いま時代的に、普通の人が悟りを得られる地球の波動状態に来ているので、普通の私もこれを知ったからには是非今世でその境地を「直接体験」し、それを持続させたい。

この所謂「悟り」、そのためにはさまざまな執着を捨てなくてはいけない。

ラッキーなことに、私は執着心が薄い。年齢的にもその境地に至っているのは普通の流れとも言える。

若い頃は我が強くいろんなものに執着しまくりだったけれど、欲しいものや人生の夢や目標が全て手に入って一時的に満足したあと、もういいやという境地になってしまった。何故か、「もっともっと!」とはならなかった。

今執着しているとしたら、真理を得たい!ということか。。これも執着しないようにしなくては~なのだけど。

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クリシュナムルティの様々な本で言ってる事の根本的なことは

人間は様々な条件付けから解放され、自由になるべきだ

ということ。まず自由にならないとお話しにならないということで、自由になってこそ真理が見え始める。この自由というのが、私にはぶっ飛んだ内容になっていて、そんなこと教えてくれる人は今迄一人も居なかった・・・と愕然とした。しかしそれも当然。ほとんどだれも悟ってないのだから人が教えてくれるわけがない。

一部の悟った聖人たちは書物で教えてくれているが、その書物に出会うことすら自分が求めないとあり得ないのである。

クリシュナムルティがいう「条件付けからの解放=本当の自由」というものは、実は聖人など悟った人以外は誰も自由を持ってない、みんな牢獄に閉じ込められている状態と言えよう。

条件付けって?

私は日本人だ。
私は女だ、(男だ)、(どちらでもない)、
私は○○だ。
私は○○宗教を信じている。
私は無宗教という宗教を信じている。
私は。。。
私は!!!
etc・・

というあらゆる全てのこと。これらが縛られてることだなんて・・驚いた。けれど確かにそうだとも思った。

「私は!」と思うことがもう条件付けられている。いや~そんな事言っても、「私は」という認識が無い人は居ないのでは・・・(;”∀”)???私は私ではないとか、何者でもないとか、名前はないとか・・そんな人おらんやん~。。

赤ちゃんは条件づけられていないが、幼児が自分の事を「わたし・ぼく」と認識するようになると条件付けの鎖が足に嵌り、自分と他人という分離の意識が登場し、自分を守るために相手と喧嘩したり争ったり、勝つために競ったり、果ては争いになり、国単位になると戦争になっていく。とは言っても今の地球で生きる為には「わたし」という自我がないと生きられないので本当に難儀やなと。

今迄の時代は競争の時代=うお座の時代であったが、これからの時代はみずがめ座の時代=統合の時代になるので、この自我と真理が融合した新しい人間がそこら中にポコポコ出てくる事になると言われている。意識が反転した人達であるため、既存の思考のまま競争思考で居る人は沙汰されていく。例えば人を論破してお商売している有名人など、、、ああゆう方々は徐々に消えていくと思われる。

真理を体感するために大事なこと

は、先ほども書いた「執着を捨てる」という事なのだが、物とか特定の人に執着しないことだけではなく、思考にも執着しないことが大きなポイントになる。

思考=左脳=考える脳、悩む脳、苦しみを生み出す左脳、他人との分離感を強くし私という体への依存心が高くなり、私を守るためにはなんだってするぞ、例え他人を蹴落としてでも!(出世や受験なども)。

人が見ていたら良い事するけど誰も見てなかったら良い事はしない~とか。人の目を異様に気にし、どう思われているかに固執し、心とは裏腹にいい人のふりをして疲弊したり、やたら他人を誉めたり煽てたり、自分の人生なのに他人の目を中心に生きている、自分がなくなってしまってたり。

(勿論それがいい人は何も変える必要はない)

自動思考に囚われ、頭の中に常に過去や未来の心配事、悩みがぐるぐるめぐるアレ。まずはこの脳内のやかましいお喋りを減らしていき、常に静寂な頭の中になったとき、本当に普通に、なにも特別なことがなくても穏やかに幸せで、悩みも1つも無い、今だけに集中して人生を楽しめることになる。真理はまだ全然体感できなくても、自動思考が消えるだけでこの世が天国になる。

日月神示 黄金の巻 第六十帖
天国に行く人、この世でも天国にいるぞ。

自動思考の減らし方は人それぞれ。大抵、悩みの種は人間関係であるからして、離れられるなら離れてみよう。距離を徐々にとっていき、気にならない距離まで離れてみる。離れられない人(家族や職場の人)なら、その相手が嫌な発言したり、嫌なことをしてきたら「うわっ、嫌だ!最悪!」と思う自分の心をじっと観察する。

ただ観察する。「今、嫌だ、最悪!」と思った。うん、思った。ここから思考を引きずらない。観察して終わり。イラっときたら、「イラっとした」と観察するだけ。

そのイラっとした思考などは、実は私ではないのである。それは「条件づけられた左脳が生み出す勝手な考え」であって、本当の私ではないのである。条件付けは環境で変わるため、外国に行けば全然違う、そんなころころ変わるものは真理でもなんでもない。

外側のものには真理はない。真理を知れるのは自分の内側(内観)だけ。

私も結構やりがちなのだが、条件づけられた思考の「勝手な正義感」。これは最悪・・

例えばワクチンは危険だよね?とか、私の勝手な正義感なのであった・・(ごめんなさい・・)それが実際危険であるとか、そうでないとか、そんなことはどうでもいいのである。ここを認めるのが私はとても難儀だったのだが、最近急に腑に落ちてしまい、少しステップアップしたのかもしれない。

どうでもいいって、亡くなってる人も沢山いるんだよ!とお叱りを受けるかもしれないが、見ている視点が違う。自分の外側で起こっている様々な現象に、この世の、この宇宙の真理は関係なくて、良いも悪いもなくて、それが良いとか悪いとか判断しているのは、牢獄に閉じ込められた条件づけられた自我が、勝手な正義感を出して善悪を判断しているだけ。。ということに。

打っても打たなくても個人の判断。(自己で判断できぬ子供は別としても)

それで気づきや学びが起こる。なので気づきを得たい人はどんなに反対されても黙って打ちに行く、という行動をするのである。ここもなかなか認めるのが辛かったが、今は腑に落ちてしまっている。

日本人の常識感も、海外で暮らすとかなり非常識なこともあり、ルールは場所が変われば簡単に真逆になることもあり、海外で暮らしているのに謎の日本人ルールを当たり前よね!って強要してしまったり、それに反論する人を蔑んだ目で見たり・・結構そうゆうの見て来たな。。。けれど善悪判断についての知識がないだけなので、これも無知がゆえ起こってしまう現象。

自動思考が消えるといろいろ意識の変化が起こる

変化が起こると、攻撃的、否定的な自分がスーッと影を潜め、心の中は常に平和で穏やかになっていく。脳内お喋りもない。何も特別なことがなくても毎日幸せだなぁとか、幸せってもう既に持っていた、と腑に落ちて実感してしまう。

すると、カップルが「結婚して幸せになりたい」と言ってるのもかなり違和感で、今幸せじゃないの?と思ってしまう笑。いちいち言わないけど・・。本当はカップルは今十分幸せなはずで、「結婚して幸せになりたい」というセリフは、そう言うものだから~みたいな魔の呪文みたくなっているのではないか?「幸せすぎるので結婚して、この幸せをずーっと継続しまーす!」が良いなぁ。

問題は今苦しみの中に居る人であるが、その苦しみを抱きしめて離さないのは自分の思考癖なのであって、全く同じことが起こっても、すぐ手放してどうでもいいわぁ~となる人もいれば、鬱になるまで悩む人もいる。悩むことに意味がないとわかれば悩まないと思うのだが、この世は真逆の世界なので、思考することが良い事とされ、何も考えない人はバカだと思われる。

しかし、何も考えないというよりは、私の思考は条件づけられてしまっているので一番信用ならん偽物なのである。この偽物の思考は私ではない。

本体の、真我意識の私(ワンネス)に全て自動でお任せして直感で生きればみんなうまくいく。嫌なことがあってもそれは気づきの大チャンス!嫌なことしてくる人がいて、私の心が反応する。その心の反応をただただ他人事のように観察する。

人間の物質身体の中には、「真我意識ワンネス本体」と「私という意識である自我」が共存している。で、悲しいかなこの私という自覚をもってるのが偽物っていうことだから、悲しいねぇ。これは悟った偉大な聖人たちがこぞって皆同じことを言っているので、そうなんであろう。

しかし、それもしばらくすると腑に落ちて、私は偽物の自我ではなく真我意識のほうなんだと思えば、直感に従って生きていけるようになり、そこからシンクロニシティが毎日起こりまくるし、直感もさえまくる。

この直感は、絶対に無視しないことに決めている。

例えば旅行に誘われたとして、なにやらぞわぞわとした「あまり行きたくないかも」という感覚(直感)が芽生える←大事!

しかしせっかく誘ってもらったんだし?と、直感を打ち消すのは左脳の自我がやっている。直感を無視して自我に従ってしまうと大抵嫌な思いをしたり失敗したり事故ったり怪我したり(;´∀`)?!

直感が「やめときー」って感覚でぞわぞわと強く何度も教えてくれたのなら絶対それに従う!と、私は決めたのである。決めた!と宣言しないと、左脳のささやきに乗ってしまうこともあるので宣言は大事かもしれない。

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瞑想

内観には瞑想が良いけれど、この瞑想すらクリシュナムルティは不要だと言ってしまう。最初は必要だけど、そのうち瞑想が不要になるので、いつまでも瞑想に依存しないようにという意味。

最終的には本で仕入れた真理に至るまでの教えも全て捨てなくてはいけなくなる。悟ったらもういらないから。ほんとに何もかも断捨離するんだなぁ。。。と今はボンヤリ思っている。

瞑想はやり方のコツをつかむと楽しくなるし、いつでもどこでもやりたくなる。カフェで珈琲を待つちょっとした時間でも、心の静寂を得たくなる。至福の感じがするの。

私はヨガナンダの瞑想法を今は行っているけれど、拘りをもつのは良くないし、クリシュナムルティの瞑想録と言う本も参考にしている。この本すごく良い。。

内観は自分で発見していくものだから人から教わってその通りやりつづけるーというのもまた依存だということで、良いと思ってやってることがだんだん害になり果て、悟りを得る事からどんどん遠のいていくことも多々あるんだとか。

基本は自分で考え探求する人だけが叡智を知れるのだろうし、そうゆう人でもなかなか難しい世界と言える。ただ、これからの時代(もう今も)地球の波動が変わってきているので、普通の人が覚醒できる可能性がかなり大きくなってきている現実もあり、そこに少し望みを持ちつつ、いつの日か解脱できる日が、来る!(言いきりが大事)。

P258~クリシュナムルティが「星の教団」を解散したときの解散宣言が載っている。全身がのけぞるような素晴らしいお話で、感動した・・。

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