なんというか、、それは突然来て、すぐ変化に気づきました。
あーぁぁっ。
それだけ。
本当に、言葉で表現しようがなく。
その境地に入った、反転した、という感じでしょうか。言葉で書くとすんごい違和感。
今年春頃、クリシュナムルティの本で「人間の自我がある限り戦争はなくならない」という事を知り衝撃を受けて、まさか戦争が全ての人の自我のせいで発生しているとは。。
その後ヨガナンダの本に出会い、すぐにラマナマハルシの本に出会い「真我」というものを知り、なるほど、インドの聖者や賢者たちは皆同じことを言っているという事を知り、私も探求の道に入っていきました。
そして探求は数年、数十年かかるかも?と思っていたものの、真我探求を始めよう!と思ってから半年ほどで終了。あっけなく終焉を迎え、これで終わりではないのですが、大きなヤマは越えたと実感。
今年も山のように読書をしてました。読み散らかし状態。しかし、その真我というものがどうしても腑に落ちて理解することができず、わかるようでわからない。ラマナ師の本で「そのわからない、という思考は誰が言ってるのか?その言ってる思考がどこからくるのか、その根源を探しなさい」と書いてありますが、どこから来てるかって( ̄▽ ̄;)???自我から来てますが、その根源って。。?でいつも止まってしまう。
しかも真我は自我(エゴ)には理解できません、ときた。いやどうなのそれ?
思考が止まっていて静寂なのに自我があり、真我がわかりません状態。
けれど、とうとう真我が、ソレが来たといいますか、あ!わかった。わかった、という人は居ませんので、表現としてはおかしいのですが、けれどわかったんです。
自我はどこに行ったのか、急速に萎んで小さくなり、今もそのまま。面白い。自我が消えたわけではありません。けれど、探さないと出てこない。
今後自我がまた大きくなる心配は、なぜか全くないです。
特に最近頭を打ったとか、脳梗塞を起こしたなんてことも今のところありません。
真我をみつけたあとの変化
わかった、というか、前から知ってた(思い出した、という感じでなかった)この状態になってすぐ、確認のために今まで読んできた聖者や賢者たちの、わかるようで結局わからん!となっていた本を読み直してみましたが、全て理解できている自分を発見(自分は居ないんですけど文章上・・)
ラマナ師の本を開いてあちこちパラパラと読んでみる。うん全部何言ってるかよくわかる。(あんなにわからなかったのに!?)
師が何処の視点からものをいってるのかがわかる、ということです。師と同じ視点に立ててないから、本を読んでも「あ~わからん!」となっていたことに気づきました。
プンジャジ(パパジ)の本を読んでみる。うわ~~全部理解できる。この前までわからなかったのに・・
真我がわかり、そこには誰も居なかったという衝撃!と同時に、そこには全てがあり、私しか居なかった、とも言える。なんとも説明不能な、どっちなのよ?という、言葉にするとそうゆう表現になってしまいます。
理解した途端、笑いがこみあげ、止まらなくなりました。
私はここにいるのに、居るって思ってたはずなのに、居ると思ってるのは想念の世界の話であって、後ろの正面だ~あれ、で振り返ったら私はどこにも居なかった・・(又は全てが私だった)とわかって、キツネにつままれたかのような気持ち。
後ろの正面だ~あれ、で実際後ろを振り返ったわけではありませんが、カゴメの唄って、そうゆう歌だったのかと気づきました。
youtubeで、悟りに関する動画で何言ってるのか全く理解不能、全てが理解不能と思っていた難解な動画があるのですが、それを見直してみると普通に理解できました。この変化に驚き。。
これがクリシュナムルティがいう意識の変容?
意識変容し自分が変わったとも言えますが、表面上は何も変わりません。ここ数日、私の変化に気づく人は誰もおらず、今後も気づかれる要素ゼロ、とてもオカシナ感じ。自分が居ないのに、居るかのように過ごしてます。
そう言えば非二元の本も何冊か読んできましたが、「私は居ない、何もない、コレしかない、それしか居ないでショ」みたいに元も子もないような書き方に思え、とっても苦手でした。非二元の本を数冊読みながらイライラし、ぶん投げたくなったもんです。でも・・今読み返してみると、全部理解できるように変化してました。
あんなに意味不明で理解不能でイライラしていたのに、全部スッキリわかるし、その通りでございます、という当たり前のことしか書いてなかった。
全てが腑に落ちて理解できる。
これは例えば、外国語の勉強をしていて、実際ネイティブ外国人と話してみたら全然何言ってるのか聞き取れない、わからない、そんな状況がずっと続いていたものの、ある日突然全てが聞き取れ、隅々までネイティブ並みに理解できる状態になった!というびっくり仰天の感じにそっくりです。
そう言えば、最近ますます耳鳴りが大きくなってきてます。何か関係あるのでしょうか?
罠?
瞑想中の映像
それから瞑想中に鮮明な意味不明な映像が出てくることですが、この前そのことについてブログを書いてふと気づきました。コレは罠だ!って笑。
私の瞑想は、マインドフルネスのような何か1点に思考を集中させるというやり方ではなく、完全な無思考状態に浸るものです。瞑想しなくても無思考状態なので、日常が瞑想になってしまってます。
しかし突然映像が出てくると思考が動き出します。「また出たわ、何の映像かな?」とそれを覚えようとします。映像の意味がわからないので考えます。完全に意識を客体にもっていかれてる・・・罠だ~。
以後、映像が出ても「あ、出た」とは思いますがすぐ無思考維持で無視。ただ意識がそれを見ているだけ、、という状況をキープするようにしてます。
そうする事が数回続いたあと意識が反転したので、罠に気づいて無視したのは正解だったのかしら?
SNS依存からの脱却
あと、9月にX(ツイッター)を停止させたことも関係しているかもしれません。私の使い方が悪いために、ツイッターは自我増強でしかないと気づき苦しみが増え、どうにもこうにも苦しみまくったあげく軽く心がブチ切れの心境になり、パタッと投稿をやめスマホから削除。
自我は巧妙で、このSNSへの依存心はさほどではない、と思うように仕向けられていて、しかしよくよく考えたらブチ切れていた事に気づく。その後たった数日ではありますが深い悲しみも襲ってきました。
ただラッキーな事に「X見たい、投稿したい」という気持ちは起こらず、すぐに執着が取れた。すぐに執着が取れたのには驚きましたが、今思うと自我の収縮は徐々に始まっており、踏ん切りをつけて行動を起こしたら早めに執着が切れる状態だったと思えます。ふんぎりつけてアプリ削除するまでが大変でした。
悟りの状態、意識が反転してしまうようなことが起こる前には、絶望するような苦しい心の状態が爆発したとき、何か衝撃的な異常があってそうなることがある、みたいな話を聞いたことがあります。爆発→一気に悟りに到達する場合もあれば、多くの人は徐々に~のようです。
気狂いするような心の苦しみが、いきなり恩龍となるので、苦しみは今もう全く怖くなくなり、恐怖というものがなくなったと感じます。
悟り。。。
そんな特別でもないですし、何か過大な期待をさせられていたように感じます。起こり方も、何が引き金になるかも人それぞれで、いつどこで起こるかもわかりません。しかし、全く知識がないとその状態が起こっても何が起こったのかすら気づかず仕舞い。探求の本をコツコツと読んでいくことは大事と思いました。
探求で気を付けていたことは、真我探求をしているつもりが罠にひっかかって真逆の方向に行ってた・・とならないように、くらいでしょうか。
瞑想は、一般的には「止まらない思考を静寂にさせるため」に行いますが、瞑想しながら神様に会うことを望んだり(日本人ではそんな人ほとんどいないでしょうけど)何かの魔法や霊的能力が発生することを望んだりすると、真逆の方向に行ってしまい真我は達成できません。
真我をみつけ、真我で在る状態がわかる直前に読んでいた本
あくまで私にはわかりやすかったと言うだけの話になりますが、以下の(プンジャジ=愛称パパジ)の本は物凄く気に入ってます。ラマナハマルシの弟子であるパパジですが、ラマナ師の本よりかなりわかりやすく書いてあり、一番好き。
この本の中で一番好きなのは、
11章「来ては去っていくものは罠だ」
です。
コメント
エドガーケイシーを読みましょう
エドガーケイシーさんの本、読んでみますね。ありがとうございます。