続・瞑想中の鮮明な映像

精神世界
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瞑想中に鮮明な映像が見えることがある。これは何なのだろう?」という投稿へのアクセスが継続的にあるので、その続きを書いてみます。

その後も鮮明な映像は出てきています。しかし自分では意味不明で解釈できないので、最初のような驚き感はすっかりなくなってしまいました。

解釈できない、というのが良い点だと考えています。その理由は最後のほう、「黎明 下巻 第23章 霊的向上の方法と瞑想」で述べます。

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みえる映像

マンガ

最近繰り返し出てくる似たような映像は、漫画。どこの大陸なのか?と思うような広大な自然の中にいろんな生き物が見え、人もいるし可愛い怪獣もいる。一番大きく見える生き物を「これはなんなのか?」と、鮮明な映像が出てから初めて思考を動かせて考えてみるのですが、なぜかよくわからない。

↑時折出てくる怪獣は、あつ森のこの置物が似ています。(全く同じものではありませんが)

そしてわかるのは、その生き物たちは一見歩いているように見えるのに、よく見たら一歩も動いておらず、代わりに世界(背景)が動いているということ。

背景である空や木々や土の地面が、左から右へ向かって横に流れる映像で、生き物は逆に右→左に動いているかのように見えるものの、実は皆その場にとまっている。

これは、自分だと思っているような生命体は一歩も動いてませんよ、という事が言いたい映像なのかしら?(生まれも死にもしない、全ては最初からそこにいる「これ」という存在)

この映像は何回も出てきます。

ドラえもんのタイムマシンのような

次に多いのが、パステルカラーでちょっとネオンに見えるピンク、イエロー、緑、水色の物体が横に流れる映像や、ドラえもんのタイムマシンに乗ってるときのような、放射状に前に吸い込まれていくような動きの映像。

この物体は数字もあれば、幾何学模様のこともあれば、いろいろです。数字のネオンが目の前で美しく動くのです。意味不明。

写真も出てくる

一度だけ、「あ!これは三条商店街だ」とすぐわかるような、若干セピアがかった画像がみえました。三条商店街には普段全く行かないので、何故そのようなもの見えたのだろう?続いて、スーパーで果物や野菜がセールしている写真も何枚か出てきて、その時はそれだけでした。これは1度だけで結構前にみました。

ただ、このようなものをみても、それが何かさっぱりわからないのでどうしようもありません。面白い現象ですけどね。。

幾何学模様、万華鏡

万華鏡も何回も出てきてましたが、最近みてません。

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変性意識状態?

瞑想が深く入っていって、睡眠に入り込む瀬戸際まで近づいてることが多々あるように感じます。その状態になった時に何かパッと突然映像が鮮明に登場。

いろんな瞑想の仕方がありますが、私は何か1つに集中するというやり方ではなく、何も思考を浮かばせない、「無」の世界に入り込むのが好きです。普段から、今に関係ない過去や未来などの思考がほとんど浮かばないので、思考を無にすることはなぜかできてしまいます。(いろんな本には、思考を止めることは出来ないと書いてありますが、できる人もいます)。

映像出現は突然というよりはその前に短い序章があり、真っ暗なはずの目を閉じている視界に光の点みたいなものが沢山動き回るようにみえたり、輪郭がぼわーっとした丸い大きめの光がゆらゆら動く状態になったりして、目の前が無音状態で急に騒がしくなり「あ~~~キタキタ」と。このあと映像が出る。

毎回思いますが、感心するほど鮮明な映像なんです。目を閉じてるのに?と未だに不可解。

そして結末は毎回大体同じパターン。瞑想中は思考は無で、静寂の中にいます。映像が出ると思考が出てきて「この映像は何だ?」と解析しようとします。みえているものをできるだけ覚えようとし、理解しようとすると何故か薄目が開いてしまうのです。

薄目があくと、薄明りの自室が見え、映像が消える。あ~~消えた!と思うので急いで目をしっかり閉じようと目に力を入れると、同じ映像の続きが出てきます。しかしまたしばらくすると薄目が開いてしまい、手で目を抑える強硬手段を使うことも。しかし手を急に派手に動かしたりすると映像は消えてしまします。もうみえません。

あ~~~、、終わってもうた。。

大抵、終わりはこんな感じ。

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映像の解釈ができない事を利点と考える理由について

黎明 下巻 第23章 霊的向上の方法と瞑想

P.203)瞑想は心の実相を観察したり、様々な目的のために心をコントロールする行法としてもっともよく用いられるもので、適切に行うことが出来れば普遍意識が自覚に至る上でも大きな手助けとなります。

瞑想に際しては、その目的と意識の焦点をどこに合わせるのかということが大変重要であって、もしも意識の中に何らかの潜在能力を得たいとか、その他の色々な個人的欲望を満たしたいというような気持ちを持って瞑想をするならば、その人は幽界、すなわちアストラルレヴェル及び、メンタルレヴェルの、その想いに対応する波動領域にチャネルします。

こうした相対的に低いヴァイブレーションでは、その人の望むことについては、ある程度の結果を得ることはできるかもしれませんが、自我意識を増長させるわけですから決して普遍意識の自覚に至ることはありません。

この本は、私のお気に入りで何度も読み返したい本。解脱目的のために行動する人が、不思議な現象に魅せられて真逆の道に行かないように、ということも多数書かれた特殊な本。(別の道に行きたい人も居ますし、それに善悪はありません)。

何の目的で瞑想するか?は人によって全然違います。

私は特殊能力が欲しいわけではなく、(面白いし興味深いですが)自動思考である、過去や未来のアレコレの思考がどこからともなく勝手に湧いてくるのと同じで、瞑想中に突然湧いてくるだけと思っています。意味不明のままで良い。

黎明は、上下巻ともお勧めで、上巻の最初はなかなか難しいですが、この世界が幻影でしかないことが科学的に理解できるようにもなり、うぉぉっ!(*’▽’)と嬉しかったです。

座り方に絶対的な決まりはない

私は蓮華座の座り方はできなくて(脚が短いからかなぁと思うほど、足の長さが足りない感・・)足を組むのも痛くて気になってダメなんです。

基本は

  • 椅子か、固めのソファに座る
  • 寝転んで瞑想
  • 又は邪道かもしれませんがお風呂の湯舟の中(危ないので、半身浴)

で行っています。

寝転んで瞑想って!と思われるかもしれませんが、これが私にとっては一番、身体がどこも痛くない状態になれます。全く眠くない時なら寝転んでも寝てしまう危険は最小限になります。寝て瞑想は全然アリ。寝てしまうのが難点なだけなのでそこは注意。

お風呂の中も浮力の影響で身体がとんでもなく軽くなり、お湯に浸かっている部分が何か繋がってる感があり、不思議な感じになります。

(初心者は別として)ある程度瞑想について知っていて自分でやってきている段階になると、「こうでなくてはならない」という決まりごとはなく、逆にそこに固執することがもう何かに条件付けられており、全く自由ではありません。いかなることからも、自分に付着している条件付けを無くし解放するのが目的なのに、いつまでもこうでなくてはならないにしがみつくのは逆走してます。人の数だけ瞑想法がある。

クリシュナムルティは瞑想法など学ぶな、グルもいらない、と書いてますが、最初は学ばないとわからん。学んでも、ある段階に進んで不要になったら手放す。

最初は行法がわからないので何かの本で学んだりしますが、自分でやり方がわかるようになれば少しづつ改良していくと良い、ベットに寝て瞑想もOKと黎明にも書いてあります。

ヨガナンダは西洋人に対して、椅子に座って瞑想を薦めることもありました。西洋人は蓮華座などなかなかできないから。足が痛い状態で静寂なんて無理ですものね。

椅子に座って瞑想すると、動かない限り自分が椅子に座っているのか、浮いているのかわからなくなります。(浮いてるわけないけど~)椅子に接してる皮膚感覚はだんだん薄くなりわからなくなることを発見することができるのです。その時、足が痛いとか感じているとダメなので、どこも痛くない状態で座ったり、姿勢をラクにすることが大切と思います。

洋服も大事で、どこもしめつけない、ゆるゆるの服で行ってます。寒いも暑いも感じない、何も感じない部屋にできれば余計な思考もわきにくいです。瞑想音楽も一切ながしません。うっすら外から聴こえる虫の声くらい。この辺は個人個人、好きなスタイルをみつけるのが良いと思います。

ではでは~~。

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精神ぷらりたび(前題:海外ぷらりたび)

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