ナニコレ、良い本や~|ヨーガ・ヴァーシシュタ -至高の真我-(思考を止める重要性)

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ヨーガ・ヴァーシシュタという本を本屋で見つけ、しばし立ち読み、、気に入ったので購入しました。ラマナハマルシがこの聖典が一番好きだったという本です。

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ヨーガ・ヴァーシシュタ

真我実現へと導く最高峰の聖典!
20世紀の偉大な聖者、ラマナ・マハルシが最も愛し、重要視した聖典!!

「二十世紀の偉大な賢者ラマナ・マハルシは、一九三〇年代に、のちに彼の恩寵によって真我実現することになる弟子のアンナーマライ・スワミから、『真我実現のために読むべき本を教えてください』と求められた。
そのとき、マハルシが挙げた六冊の聖典(Kaivalya Navanitam, Ribhu Gita, Ashtavakra Gita, Ellam Ondre, Swarupa Saram, Yoga Vasishtha)の中でもマハルシが最も愛し、頻繁に教えを引用し、重要視した聖典が『ヨーガ・ヴァーシシュタ』である。」

聖典は読んだことなかったですが、難しくもなく、面白い物語として書かれていてとてもいい本。真我を知識として知るのはコレだけでもいいかも?と思えますが、いきなりこの本にたどりつくことはなさそう。。。私も真我を直接体験してから出会ったのです。

ここにはとても面白い、王様、王子、聖者、賢者が登場するお話を使って「真我~解脱」へ向かうために心をどうすればいいか書かれており、まだ2章しか読んでませんけど、物凄く惹き込まれます。

いきなり「はじめに」のところで

空の青さが視覚的な幻影であるように、この世界の現れは精神の錯乱でしかない。それに思いを馳せるよりは無視したほうがいい。

なんて書いてあり、意味が解りすぎて心が浮き立つ。

空の青さは人間の目からみたら青、というだけで実際は青じゃないですし、色なんてないです。

この世界の表れは精神の錯乱・・確かにそうなんですね。

人間の目で見ている色が付いたこの世界は、実は色なんてないのだ、ということは量子力学で言われていますし、この昔々のインド聖典で書かれていることが現代科学で証明されつつある今の時代。

税込み4070円。
なかなかよいお値段。

電子書籍キンドルですと2673円です。

ダイソーのA5サイズのクリアブックカバーがピッタリ。

「1章、離欲についての教え」

私の体験で感じてたことと同じ意味の事が聖典に書かれていて、凄く納得。

私は若い頃にいきなり人生の目標であった夢(プロのミュージシャン)を叶えてしまい、有頂天だった時代が続いてましたが、その中で実感したことは、

幾つか大きな夢が叶ったが、幸せと同じだけの苦悩ももれなくついてきた。夢を叶えるのは楽しいけれど、そんな夢中になるほどの魅力はもうないな。。

でありました。

かといって、その後もいろいろ外側の世界で自分の得たいものを手に入れようと翻弄するわけですが、若い頃はこの「永久に続く幸せなどない」と感じていても、それで「この人生とは一体なんなのか?」とは思わなかったんです。

でも、私の人生で出会った人たちは、私が真我に向かうようなことばかりをちょいちょぃ吹き込んでくれてました。その時は「ふーん」くらいにしか思ってなかったとしても、のちのち、「なるほど!私の人生の全てが、悟りや解脱に向かうための、気づくための道であった」と実感。(全ての人の人生経験・苦楽の全てが解脱に向かうための道です。)

特に破壊的な悲しみや絶望が、重要な鍵になってました。その時に死ななくてよかった~!死なないように、死にたいと思い詰めたらすぐ「おいおい、こんなくだらないことで死ぬなよ。この悲しみは時間がたてば消えるし、ほんとに心の底からどうでもよくなる。間違いない!」と言う声を感じ、辛くても我に返ってたのでした。この声は、私の真我からきてた「気づき」です。勿論当時は真我など全く知りません。

離欲は、自分の外側のことで、あれがほしい、こうなりたい、と若い頃は当然欲望ばかりが出てくるけれど、それを叶えてその時は凄く幸せで有頂天だったとしても、その気持ちはずっとは継続されず永遠ではない、更に苦悩も多く付いてきたと気づくところから始まります。その事がこの1章で書かれています。

離欲状態に入るとその人は「足るを知る」状態で生きるのが心地よくなり、凄く無理して何かを買ったり何かになろうとすることがなく、一時的な凄い快楽(+苦悩)に興味がなくなり、苦労しなくても手に入るものだけで満ち足りた気持ちになっていきます。

一切の欲を失くせ、ではなく、無理せず手に入れられるものだけで心か豊かでいられる状態。結構無敵です。

ずっと永久に消えない幸せはあるのか?→ある。

それは自分の外側にあるものではなく、自分の内側にある至福。自分とは一体何なのかを知識で知って、直接体験としても立ち現れることであります。

辛い状況になると心は自分の内側へ向かうようになっていきます。大きな震災や、コロナなんかも人によっては「わ、この世界おかしくないか?社会システムおかしくないか?」と気づくきっかけになり、そこから左右にぶれまくって最終的に中庸である「真ん中」に、真我の至福の存在に気づくように~なる。(はず)。人によっては今世ではないことも多々ある。

私は自分の発生源である真我の直接体験が起こりましたが、それは内側の世界の話。その直接体験はものすご強烈なので、忘れることができません。なんせ、そこには私と思っていたような人は居ないんです。えー?

今はいつでもそこに戻れますし実際毎晩(みんな)寝てるときに戻ってます。なので実際は全員悟ってますが、ただ自我と自動思考の嵐で気づけない。

しかし悟るような「ひと」も居ないので、表現がおかしくなりますが、真我の体験が起こるとこの意味が腑に落ちて、即理解できると思います。

私が消えるー。私が居ないー、の世界。熟睡しているとき、みんな意識も自我もないでしょう?

これ、実は最初は30年くらい前に既に体験していたのですが、その頃は知識が無かったので、その強烈な体験が何なのかわからずただただ、自分が完全に消えた!という一種の恐怖として受け止めました。でも一瞥だったので、のちほど自我が戻り「私生きてるし、まぁいいか」と思って深く考えなかったのです。誰もそのことに答えられる人は周囲におらず。

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「ラマナ・マハルシの教え 私は誰か?」

というPDFがマハルシの公式サイト上にありますが、その最後の部分にはこう書いてあります。

27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?
探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。

28 解脱とは何でしょうか?
束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。

「ラマナ・マハルシの教え 私は誰か?」
https://www.sriramanamaharshi.org/wp-content/uploads/2012/12/Who%20Am%20I%20_%20Japanese%20Edition.pdf

特に28は驚きました。

その真の本性を悟ることが解脱。その真の本性は、真我から毎朝立ち現れる私です。そして私という個別の人のような者はいません。(いるように見えているけれど)。

朝目覚めると身体に入って意識が発生し、数秒は真我のみ。そしてすぐ「わたし」を認識し、自我が発生。朝目覚めているのに、別の夢の幻影世界にきたわけです。

おもしろい宇宙の仕組み。

その真我を直接体験するのが探求者の目標になってるわけですが、これはパパジやラメッシによると、そうなりたい、と思う事すら自我であり、自我を強化している罠に陥っている。じゃぁいつ直接体験ができるのか?というと、それは私という自我がやるのではなく、真我がやるのだと。なので人間にはどうしようもない。

探求で大事なこと

人間にできることは心の中を無にすることと思います。←これだけって感じかもしれません。

ヨガ瞑想も、心を無にすることが大事と思って勝手にそうやってきました。

瞑想の多くは「何かに意識を集中して・・」と教えてます。それはエゴが強化されるのだけど?ここを知ってるかどうかで余計な道に行かなくて済むと思います。マントラもいりません(と、パパジやラメッシの本に書いてありました)。

心のおしゃべりを無にすることはとても難しいと知りました。心を無の状態でキープすることなんて絶対できないよねーと、youtubeであちこちで聞きますが(ナオキマンもだいぶ前の動画で言ってた)

私も以前はやかましかった脳内のときもあったのに、今は無、ずっと無、シーン、、なので、誰でもできるはずです。

心の中のおしゃべりをやめると、心が常にシーンとなります(なのであまりの静寂に耳鳴りがw)その静寂な時、私と言う自我は居ません。自我が居ない状態を体験する、、体験しつづける、、

でもこれを考えよう、この仕事をやろう、今から料理を作ろう、人と会話をしよう、というときはきちんと思考が機能します。その思考ではなく、無にすべき思考とは、今ここに無関係の無駄な思考のこと。

「あの人、こんな事言ってたな」「あーあれ、嫌だなぁ」と過去や未来を思って想念の中であれこれ妄想している思考は自分を苦しめるだけなので、それをやめるだけのこと。

やめると言うと語弊が。。実際は聖者でさえそのようなふっと湧いてくる思考は少ないとはいえあるのですが、その思考に一切囚われない、ということが違いです。

「は~、明日嫌だな、、」という思考が仮に来たとしてもその思考が勝手に起こり勝手に消えていく。囚われていると「明日嫌だな、、」から続きの思考に進み、脳内おしゃべりが延々続いてどんどん苦しくなっていく。

心の中を無にすることは、全く無理~~という方へのおススメはネドじゅんさんのYouTubeがいいと思います!(^^)!

また、心が無になって自動思考が皆無になったら魔法がつかえるとか、アカシックレコードから何か大量に情報がふってくるとか、そんなことはありません。そうなる人もいるようですが、殆どの人は至って普通のままで、ただ外側で何が起こってもそれに囚われず常に至福で楽しく生きれる。嫌な事は今後も起こると思いますが、囚われないのです。(囚われる「私」が居ない)

至福は超幸せというものではなく、幸せも不幸もない状態、と言えると思います。超幸せが来ると、もれなく超不幸な思考がやってくるのはこの世が二元性。至福は二元性ではない状態。

心を無にする、思考が止まってる状態が普通になる頃には直感が冴え、私と言う自我(エゴ)なしで勝手に物事が進んで行き、とてもラクちん。

私の場合は直感の冴え感と、人の嘘が見抜ける事位でしょうか、今のところ。あと、空気が見えます(意味ないわ~・・)瞑想で映像がみえるのは無視してます。映像に囚われることを無視するようになったあとに真我の体験が再び立ち現れました。

ヨーガ・ヴァーシシュタは、解脱までの道が書かれているので、この本もっと早く知りたかったなぁと思いますが、出会うのが今だった、ということなのでしょう。

悟ったり解脱した人が凄いわけでもなく、至って普通です。又、私もですが真我の体験が起こるまでは、至福とか真我に対する考えが全然間違ってました。勝手に「こうゆう感じだろう」と妄想していただけで、恐らく大きな誤解があると思われますし、間違った情報も多い。

恐ろしい話や恐怖を煽るような情報は、無視したほうがいいと思います。最近やたら目にする2025年7月5日の話も、恐らくその日には何も起こらないでしょう!(^^)!多くの人が恐怖を感じるとそれが集合意識となって本当に災害を引き寄せますので、「そんなことは起こらない」と思いつつ、最低限の災害対策はしておくと安心かなと。

この本を和訳してくださった福間さんは、ラマナ師がずっと暮らしておられた聖地アルナーチャラにお住まいのようで、どんな暮らしをしておられるのかなと気になって検索してみましたが、何も出てきませんでした。そりゃそうか。

こんな素晴らしい本を和訳してくださって、感謝でいっぱいです。
日本語で読める幸せ、至福。

真我・悟り
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精神ぷらりたび(前題:海外ぷらりたび)

コメント

  1. 匿名 より:

    エドガーケイシーを読みましょう

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